9月は防災月間であり 救急の日もありました。
9月のブログは、私の経験も交えて書いていきたいと思っていたのですが
いざ書こうと思うと
苦しく、怖かった思い出がドーンと襲ってきて
なかなか文章にできませんでした。
今日、9月最終日なので、ちょっと思い切って書いてみようと思います。
〜まさか、私がこんなことになるなんて・・・〜
というのが正直な気持ちです。
高速道路を救急車が走る。
東山病院*(仮称)に入院していた私は
その病院では手におえない危険な状態まで悪化しました。
病院から救急車が呼ばれ、
大学病院の高度救命救急センターへと搬送されていくのです。
意識はもうろうとしていました。
私を乗せた救急車が
高速道路を猛スピードで走っていく。
ガタガタと揺れる救急車のベッドから
滑り落ちそうな気持ち悪さを感じながら
必死にしがみついていました。
救急車が近づくと
高速道路の両脇に車が寄ってくれて
道をあけてくれていました。
それまでは
救急車が高速道路を走るのを見たとき、
「かわいそうに、よっぽど大変な状態なんやろうな〜」と当然
他人事だと思っていました。
”まさか、わたしがこんなことになるなんて・・・”
意識が薄れる中そんな風に思って運ばれていました。
そして、
”みなさん、ごめんなさい。そして道をあけてくれて早く通してくれてありがとう。”と。
・・・
・・・
・・・
薄れゆく意識の中、
まだ私は生きたまま
高度救命救急センター※に到着しました。
(※日本の救急医療は、1次救急、2次救急、3次救急と別れています。
また後日書くつもりですが
高度救命救急センターは、”命の最後の砦(とりで)”と言われており
他の救急病院では救命できないような重傷者、重病人が運ばれるところです)
ついた途端に
待ち受けていたたくさんの救命スタッフに
私は取り囲まれて
アっというまに
さーーーーーっと、処置室まで運ばれたのです。
驚くほどの速さでした。
すぐに処置室の処置台へ寝かされ、
アっというまに、
体じゅうアチコチに管が刺されていきました。
管が刺されていくのと同時に
畳みかけるように私は質問攻めにあいます。
「何の薬を飲んでたか?いつからか?飲み忘れてないか?昨日は飲んだか?今日は飲んだか?
病気はいつからか?どんな治療をされていたか?その薬は何のために飲んでいたのか?
アレルギーがでた薬はあるのか?食べられないものはあるのか?
どんな自覚症状がいつからあったのか?
・・・・・・・・・などなどなど」
意識が薄れていくのを
ぐっとこらえながら、
医師の質問に答えていきました。
なんでこんなにしんどい時に・・・
なんでこんなにいっぱいしゃべらないといけないの・・・
しかし、これは
私が意識を失ってしまわないように、
医師たちがわざとしゃべらせていたのかもしれません。
そして、正確な診断をして治療を行うためには
これほど
多くの医療情報が必要であるということなのです。
私はこの日から
「高度救命救急センター」で生息しはじめました。
その後の高度救命救急センターでの状態も
今後、ちょっとずつお話していこうと思います。
患者視点でのお話しかできませんが
「救命病棟」で
患者がどんな思いになったのか、
なにを感じたのか、
「救命救急医療」について知っていただき、
考えてもらえるきっかけになればと思います。
つづき≫【処置室からICUへ】
*東山病院……このブログで書いている闘病が元になった小説『救命率2%未満』では、東山病院として登場しています。
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