の続きと言えるかと思います。
お時間あれば、ぜひ↑こちら↑ も 読んでみて頂ければと思います。
【高度救命救急センターに運ばれる直前の話】の中で、
私は、
「会いたい人を呼んでほしい」と
薄れる意識を奮い立たせ、
声を振り絞って母に伝えました。
そして、私が意識をほとんど失っている間に、
母はどうにか使ったことのない娘(私)のケータイのアドレス帳から、
私が会いたがっていた人を見つけ出し、電話をかけてくれたようです。
※人の携帯は使いにくいもの。電源が乏しかったり、ロックがかかっていたら
連絡がつかなくなります。
もしもに備えて、できるだけ紙の物に
ご家族や友人など大切な人の連絡先は書いておくことをオススメします。
入院していた病院は私の治療に限界を覚え、転院することに。
病院が救急車を呼んで、
私は大学病院の高度救命救急センターへ救急車で搬送されることになりました。
その間に
私が会いたかった人達は、
私の母からの電話に驚き
高度救命救急センターの入口まで駆けつけてくれて、
救急車が到着した時には、
何人かの友人たちが
ストレッチャーで救急車から運ばれる
私に「大丈夫だから!」「頑張れ!」と
大きな声をかけてくれました。
ぼんやりと遠のく意識の中で、
一瞬だけ友人たちの顔が見えました。
救急車から降ろされた私は、
医療スタッフに囲まれて、
ストレッチャーごと 猛ダッシュでダー−−−−っと、
救命救急センターの中へと運ばれていきました。
呼んでもらっていた友人たちとは、
一瞬の再会で、私が救命処置をされている間は
友人達は私の親と待合室で待っていてくれたようです。
このあたりは、私の意識も途切れ途切れなのであまりわかりません。
救命処置が一段落し、
落ち着いたころに、お見舞いに入ってくれました。
高度救命救急センターで治療されている患者さん達
そして私が入ったICU(集中治療室)は、
命の危険が迫っている重症患者さんばかりなので
お見舞いも制限されています。
お見舞いの時間も短いですし、
センター内に入るためには、
滅菌コートを着用
↓
髪の毛を隠すために
七福神のえべすさまのような帽子(ヘアーキャップ)をかぶり
↓
マスク
↓
手は除菌アルコールで消毒
そして
入室となります。
ベッドで寝ている患者(私)から見たら
みんな同じ格好でやってくるので
誰がだれだかあんまりわかりません。
目の周りしか見えてないんですもん。
親なのか、友達なのか・・・
こちらは意識も遠のいてますし(苦笑)
親も友人も
私と少し話をして
手を握って励ましてもらって
すぐに帰って行きました。
詳しく書くと泣くのでやめときます。
私が「呼んでほしい」と頼んでいたのは、
友人だけじゃなくて、
この高度救命救急センターがある大学病院の
以前にお世話になっていたお医者さんもいたのです。
私は15歳の時に、血液の難病「特発性血小板減少性紫斑病(ITP)」という病気を発症し、
この大学病院の血液内科に月に1〜2回はずーっと10年ぐらい通っていました。
その後に、別の「全身性エリテマトーデス(SLE)」という難病を発症してしまったので、
SLEは免疫内科が診る病気だったので、
主治医が変わってしまい、
同じ大学病院に通院していても
久しく血液内科の主治医には会うことがなかったのです。
死にそうになっていた私は、
15歳から10年間ほど私の病気と成長を見続けてくれていた
血液内科の主治医に 会いたくて、会いたくて、助けてもらいたくて
母や、免疫内科の主治医に「O先生に来てほしい」とお願いしていました。
高度救命救急センターに入院した日、
血漿交換をまわしまして、
肝臓が息を吹き返してくれるのを待っていました。
意識は相変わらず、油断すればすぐに遠のいていきます。
救命センターの深夜の様子、というよりも
自分が命尽きそうな状態で過ごす
真夜中の救命センターの恐ろしさは
いまでも思い出すと苦しくなるので、
軽く流しますが
生きて2日目の朝を迎えることができました。
朝が来たからと言って、
体調が良くなるわけではありません。
朝も、昼も、同じく
意識が遠のく、
息を吸うのがやっと、
一分一秒、
死の恐怖と戦う時間が ゆっくり流れていきます。
そんな中、
確か二日目の午後の面会時間に
私のICUのベッドの周りにある薄いカーテンが
ゆるーく動き
七福神のえびす様がかぶっているような形の
ヘアーキャップをかぶった
O先生(血液内科の主治医)が、
顔を見せてくれたのです!
O医師 「吉野さん、どうしたん?何があったん?
肝臓大変なことになってるみたいやな。免疫内科の先生が青い顔して来てくれたで」
と。
当時、大変偉い先生に出世していたO先生は、
とっても忙しく、無理をお願いしていることは私にもわかっていたので、
本当にお見舞いに来てくれるなんて!!!と、
私は嬉しくて嬉しくて大喜びしました。
その喜んだ様子を見て
O先生は「大変なことになってるって聞いて来てんけど、案外、元気そうやな。よかったわ」と。
その時の私の検査数値を診ると、
意識があるのは信じられないような悪い状態だったのです。
私は
こんな状態になった「いきさつ」をO先生に聞いてほしくて、
なんとか、ざっくりした話をしていました。
そして、
「本当は、もっと早くにここに来たかった。」と、言ったとき、
(こう言った「いきさつ」は、長過ぎて簡単にお話できないので・・・とりあえずここだけ聞いてください。)
O先生は
「いや、いまこの救命救急センターに入れただけでも良かったんやで。
この高度救命救急センターは、3次救急施設やから、
関西のあちこちから重病人が運ばれてきてて、
なかなか入られへんのやで。
自分で救急車呼んでたら、来られてないで。」
3次救急施設・・・???
もうろうとする中で、そんな初めて聞く言葉を考えていました。
O先生はまだ詳しく説明してくれています。
日本の救急医療は、
3次救急、2次救急、1次救急って
3段階に 別れているんですよね。
続きは次回に・・・
長かったですね。最後まで読んでいただきありがとうございました(#^^#)
できるだけ
この続きは、あまり期間を空けずに書けたら・・・と思います。
(自信なさげ・・・;;)
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