2018年09月19日

【高度救命救急センターの中】会いたかった人・ICUでのお見舞い〜まさか私がこんなことになるなんて…〜

9月1日「防災の日」

9月9日は「救急の日」なので、

9月は防災や、災害医療、救急医療について考えてもらえるきっかけになれば!と思いながら



救急医療で命を助けてもらった私は、

私自身の闘病記でもある【高度救命救急センターの中】〜まさか私がこんなことになるなんて・・・〜という

滅多に更新できていない【連載】を更新しようと思います。





持病であるSLE(全身性エリテマトーデス)という難病もあるなか、

治療薬が原因とみられる 薬剤性劇症肝炎になってしまいました。

そして、

高度救命救急センターで長い長い死闘がはじまりました。





  なぜ高度救命救急センターに入るようなことになったのか・・・については、
  以前の記事もご覧くださいね(こちらが連載の1回目です)
  【高度救命救急センターの中へ】〜まさか、私がこんなことになるなんて・・・〜





今日は前回の続きではなくて

今日は「救急の日」*【高度救命救急センターに運ばれる直前の話】

の続きと言えるかと思います。

お時間あれば、ぜひ↑こちら↑ も 読んでみて頂ければと思います。





【高度救命救急センターに運ばれる直前の話】の中で、

私は、

「会いたい人を呼んでほしい」と


薄れる意識を奮い立たせ、


声を振り絞って母に伝えました。






そして、私が意識をほとんど失っている間に、


母はどうにか使ったことのない娘(私)のケータイのアドレス帳から、


私が会いたがっていた人を見つけ出し、電話をかけてくれたようです。


※人の携帯は使いにくいもの。電源が乏しかったり、ロックがかかっていたら

連絡がつかなくなります。

もしもに備えて、できるだけ紙の物に

ご家族や友人など大切な人の連絡先は書いておくことをオススメします。







入院していた病院は私の治療に限界を覚え、転院することに。

病院が救急車を呼んで、

私は大学病院の高度救命救急センターへ救急車で搬送されることになりました。




その間に

私が会いたかった人達は、

私の母からの電話に驚き

高度救命救急センターの入口まで駆けつけてくれて、





救急車が到着した時には、


何人かの友人たちが

ストレッチャーで救急車から運ばれる

私に「大丈夫だから!」「頑張れ!」と

大きな声をかけてくれました。






ぼんやりと遠のく意識の中で、


一瞬だけ友人たちの顔が見えました。







救急車から降ろされた私は、


医療スタッフに囲まれて、

ストレッチャーごと 猛ダッシュでダー−−−−っと、

救命救急センターの中へと運ばれていきました。






呼んでもらっていた友人たちとは、

一瞬の再会で、私が救命処置をされている間は

友人達は私の親と待合室で待っていてくれたようです。





このあたりは、私の意識も途切れ途切れなのであまりわかりません。



救命処置が一段落し、

落ち着いたころに、お見舞いに入ってくれました。



高度救命救急センターで治療されている患者さん達

そして私が入ったICU(集中治療室)は、

命の危険が迫っている重症患者さんばかりなので

お見舞いも制限されています。





お見舞いの時間も短いですし、


センター内に入るためには、


滅菌コートを着用
髪の毛を隠すために
七福神のえべすさまのような帽子(ヘアーキャップ)をかぶり
マスク
手は除菌アルコールで消毒


そして
入室となります。





ベッドで寝ている患者(私)から見たら

みんな同じ格好でやってくるので

誰がだれだかあんまりわかりません。


目の周りしか見えてないんですもん。


親なのか、友達なのか・・・


こちらは意識も遠のいてますし(苦笑)





親も友人も

私と少し話をして

手を握って励ましてもらって

すぐに帰って行きました。




詳しく書くと泣くのでやめときます。








私が「呼んでほしい」と頼んでいたのは、

友人だけじゃなくて、

この高度救命救急センターがある大学病院の

以前にお世話になっていたお医者さんもいたのです。




私は15歳の時に、血液の難病「特発性血小板減少性紫斑病(ITP)」という病気を発症し、

この大学病院の血液内科に月に1〜2回はずーっと10年ぐらい通っていました。






その後に、別の「全身性エリテマトーデス(SLE)」という難病を発症してしまったので、

SLEは免疫内科が診る病気だったので、

主治医が変わってしまい、

同じ大学病院に通院していても

久しく血液内科の主治医には会うことがなかったのです。







死にそうになっていた私は、

15歳から10年間ほど私の病気と成長を見続けてくれていた


血液内科の主治医に 会いたくて、会いたくて、助けてもらいたくて


母や、免疫内科の主治医に「O先生に来てほしい」とお願いしていました。










高度救命救急センターに入院した日、

血漿交換をまわしまして、

肝臓が息を吹き返してくれるのを待っていました。




意識は相変わらず、油断すればすぐに遠のいていきます。





救命センターの深夜の様子、というよりも

自分が命尽きそうな状態で過ごす


真夜中の救命センターの恐ろしさは



いまでも思い出すと苦しくなるので、



軽く流しますが


生きて2日目の朝を迎えることができました。








朝が来たからと言って、

体調が良くなるわけではありません。




朝も、昼も、同じく

意識が遠のく、

息を吸うのがやっと、

一分一秒、

死の恐怖と戦う時間が ゆっくり流れていきます。






そんな中、

確か二日目の午後の面会時間に


私のICUのベッドの周りにある薄いカーテンが


ゆるーく動き


七福神のえびす様がかぶっているような形の
ヘアーキャップをかぶった

O先生(血液内科の主治医)が、

顔を見せてくれたのです!





O医師 「吉野さん、どうしたん?何があったん?

肝臓大変なことになってるみたいやな。免疫内科の先生が青い顔して来てくれたで」


と。





当時、大変偉い先生に出世していたO先生は、

とっても忙しく、無理をお願いしていることは私にもわかっていたので、

本当にお見舞いに来てくれるなんて!!!と、


私は嬉しくて嬉しくて大喜びしました。





その喜んだ様子を見て

O先生は「大変なことになってるって聞いて来てんけど、案外、元気そうやな。よかったわ」と。





その時の私の検査数値を診ると、

意識があるのは信じられないような悪い状態だったのです。






私は

こんな状態になった「いきさつ」をO先生に聞いてほしくて、

なんとか、ざっくりした話をしていました。



そして、

「本当は、もっと早くにここに来たかった。」と、言ったとき、

(こう言った「いきさつ」は、長過ぎて簡単にお話できないので・・・とりあえずここだけ聞いてください。)







O先生は

「いや、いまこの救命救急センターに入れただけでも良かったんやで。

この高度救命救急センターは、3次救急施設やから、

関西のあちこちから重病人が運ばれてきてて、

なかなか入られへんのやで。

自分で救急車呼んでたら、来られてないで。」





3次救急施設・・・???


もうろうとする中で、そんな初めて聞く言葉を考えていました。


O先生はまだ詳しく説明してくれています。






日本の救急医療は、


3次救急、2次救急、1次救急って


3段階に 別れているんですよね。




続きは次回に・・・










長かったですね。最後まで読んでいただきありがとうございました(#^^#)



できるだけ
この続きは、あまり期間を空けずに書けたら・・・と思います。
(自信なさげ・・・;;)











<前々回







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2017年10月25日

【高度救命救急センターの中】搬送されてきたお隣の患者さん、気になる正体〜まさか私がこんなことになるなんて…〜

救急の日がある9月には書きたいな・・・と思いながら
なかなか書けなかった

私このブログ管理人の闘病記でもある
「まさか・・・私がこんなことになるなんて・・・」高度救命救急センターの中の話を
書いてみようと思います。

ちょっと思い切らないと、
闘病時の救急病棟の中にすーっと心が戻ってしまって
書く手が止まってしまうんです。



高度救命救急センターで命を助けてもらった私。


誰もが「救急病棟で生きるか死ぬかの状況に陥るなんて他人事だろう」と、思ってしまうと思います。



「まさか私がこんなことになるなんて・・・」というのが私自身の正直な気持ちでした。

でも、人生

「まさか」が

起きてしまうんですよね。


まだ20代のころ、
大学院を修了したばかりの当時の私は、
ある日
真っ暗闇の地獄の入り口のような状況に陥りました。

死と隣り合わせ。

死に神が頭の周りをぐるぐるまとわりついているように感じ、

恐ろしくて恐ろしくて、

そして、
死ぬのが怖くてたまりませんでした。



「まだまだ何もできてない。」

大学院での研究も途中だったし
 (SLEという難病を発病してしまい研究を途中で断念したばかりでした。
 SLEの治療中に続けざまに病気がでて、結局、治療薬が原因とみられる薬剤性劇症肝炎を発症してしまったのです)、

就職も、
結婚も、
出産もしてないし、

社会の中で成長していかねばならない
これから・・・というような年頃で、

死んでしまうなんて
悔しくて
悲しくてたまりませんでした。



「私には生きた証が何にもない・・・。何も残せていない。」




そんな悔しさと悲しさと、苦しさと恐怖で
頭の中がぐるんぐるんしながらも、

私は、
救命センターの中の小さなベッドに寝かされて、
管をいっぱい刺されて身動きできない状況。




血液検査の数値も、
CTなどの画像検査の結果も、
どれをとってもきわめて重症、
いつ死んでもおかしくないような状態だったのに

意識だけは、どうにか保てていたのです。


意識があるというのは、

ありがたい反面
来る日も来る日も

死の恐怖と、後悔と、悔しさと、悲しさと、さみしさと・・・・


もろもろの葛藤が渦巻きながら

身動きとれない状況を耐えねばならないのです。



耐えながら、

私は

ずっと救命救急センターの中の様子を見ていました。




  なぜ高度救命救急センターに入るようなことになったのか・・・については、
  以前の記事もご覧くださいね(こちらが連載の1回目です)
  【高度救命救急センターの中へ】〜まさか、私がこんなことになるなんて・・・〜






前回、私の隣のベッドに、
ストレッチャーに乗せられた 全身真っ赤な 人( or 子供?)が
サーっと連れてこられたというところからです。

前回はこちら>




連れてこられた人が、
なぜ真っ赤なのか、
なぜ全身赤いのが私の目に見えたのか(つまり裸だったのか・・・?)という

疑問を抱え、
私は、おとなりの様子をうかがっていました。


数分あとに、
私の担当医であった免疫内科のO先生が
左の方から白衣をひらひら※させてながら走ってやってきて


「吉野さん、うるさくしてごめんねぇ」と優しく一声かけてくれて、

その私の右隣さんのところへ向かいました。



※「白衣をひらひら」も、ちょっと注目!
高度救命救急センターの医師や看護師は、みな(当時その病院では)緑色のスクラブという手術着的なものを着ています。(<ドラマでよく手術シーンや救急医が着ている緑や紺色のアレです)
白衣の医師は他科からやってきた先生であることがほとんど(例外あり)、目立ちます。




そして、
私は「なんで、O先生が来たのかなぁ〜」とぼんやり。




隣とは薄いカーテン一枚でしきられただけなので、

姿は見えなくても 処置の音がカチャカチャと聞こえてきます。

(どうせ私も身動きできず、天井を見つめるか、ベッドの先に目をやるかしかできないのです)





若い医師が
「O先生、小脳梗塞でN救急病院から搬送された●●さん、37歳女性です。
高血圧で降圧剤を服用あり」と、O先生に伝えています。




「え、女の人やったんや。私より10歳年上かぁ」と、思っていると、

若い医師は続けて

「SLEで当病院の皮膚科にかかっていたので、市内のN救急病院より転院依頼があったようです。」






私の頭の中>

「えっ、SLEの女の人やの?私と同じ病気で、それで今度は小脳梗塞したんや。

まだ若いのに、、、

それに、まだ37歳やのに高血圧になってたんや、、、

ステロイドの副作用で高血圧になってたんかなぁ・・・。

全身真っ赤なのは、SLEの皮膚症状やったんかなぁ・・・。

あんなヤケドみたいになるのぉ・・・?」



私自身も肝性脳症※で

毒素によって極端に思考がのろくなっていきている頭でも、



同じ病気の人がまた大きな病気をして

この命の砦に、

「意識不明になって運びこまれている」ということに

大きな衝撃を受けました。

※肝性脳症・・・肝臓が極度に悪化すると肝臓で分解できなくなったアンモニアなどの毒素が体内を回り、脳に障害を起こします。傾眠、幻覚、意識障害などの症状、そのうち昏睡になります。



私が、もし
いまのこの病気(=薬剤性劇症肝炎)をなんとか乗り越えて、

生きて家に帰ることができたとしても、

またSLEが悪くなったり、

このお隣さんみたいに

ステロイドから来る副作用が原因の他の病気がでて死ぬ目に遭うのかも・・・と

不安でたまらなくなりました。



ここの苦しい環境の中、死の恐怖を耐えて、
苦しい治療をいっぱいして、
怖い思いを我慢したって、
またこんな恐ろしい思いを繰り返すことになるなら・・・

家族に心配ばっかりかけることになるのなら・・・


いまこの病気と闘うより、
いま頑張らなかったら
ずっと楽になれるんじゃないかと

そんな悪の声が耳元でささやくのです。


救急病棟の中で、意識があるということは、
生きるか死ぬか、
毎日、いや、

毎時間、
毎分、
毎秒

そのことで頭がいっぱいです。





お隣のSLE 37歳女性は、まったく意識がないようです。


救急処置が終わって
一段落したのちも、
次の日も
私の右隣のベッドから気配は感じませんでした。


人の観察をしてる余裕は私にないので、
それ以降のお隣さんの記憶はありません。


私自身が日に日に

 命の峠 !? 断崖の谷の奥深くへと 転がり落ちていくようでした。






>つづく

長かったですね。最後まで読んでいただきありがとうございました(#^^#)





<前回 【高度救命救急センターの中】タンパク&脂質制限+食物アレルギーが多い私の病院給食の話〜まさか私がこんなことになるなんて…〜


<前々回 【高度救命救急センターの中】救命センターで「ごはん」どうするの??〜まさか、私がこんなことになるなんて・・・〜











<ひとつ前の記事
幼稚園の皆様より嬉しいメッセージをいただきました!







2016年09月24日

【高度救命救急センターの中】タンパク&脂質制限+食物アレルギーが多い私の病院給食の話〜まさか私がこんなことになるなんて…〜

「まさか・・・私がこんなことになるなんて・・・」という題で
連載をしています私の闘病話(滅多に更新できてないのですが・・・)の続きです。


高度救命救急センターで助けてもらった私。

  なぜ高度救命救急センターに入るようなことになったのか・・・については、
  以前の記事もご覧くださいね(こちらが連載の1回目です)≫
  【高度救命救急センターの中へ】〜まさか、私がこんなことになるなんて・・・〜


ざっくり言えば
治療薬(病院から処方されていた薬)が原因の
「薬剤性劇症肝炎」になってしまったのです。


高度救命救急センターに搬送されて

ICU(集中治療室)のベッドでどうにか息を続け・・・

数日が経っても・・・、




給食がでない(T_T)


「やっと出てきた病院給食を見て、私はビックリっ!!!」
というところで前回は終わりました。
前回はこちら>


その続きです。



何にビックリしたのか・・・。

その前に、私のこの病院給食メニューは「栄養士さん泣かせ」でした。

理由は大きく3つ
 ↓ ↓ ↓
●極限までタンパク制限をせねばならない。(1日30g未満)
(劇症肝炎のため、肝臓が委縮してしまいタンパク質を処理できない状態だったのです)

●脂質制限
(タンパク質と脂質が制限された中で必要カロリーを確保するメニュー作りは難しいことでしょう…)

●多品目に食物アレルギーがある。
(エビ、カニなどの甲殻類全般。そば、いちぢくなど)


このような制限のもと、栄養士さんによって
編み出されたメニューで
調理師さんによって調理され

私の前に、出てきた給食は、

タンパク制限の影響が大きく

「おかず」がものすごーーーく少ないものでした。


おかずの少なさにも目が飛び出すかも・・・(笑)



しかし、私を驚かせたのは「おかずの少なさ」ではありませんでした。


数日間、絶食していた私、

ひん死で意識ももうろうとしている私の目の前に、

「大きなどんぶりにいっぱいの真っ白なごはん」が

デーンと配膳されたのです!!!


普通さ、
家で風邪ひいて熱出て寝込んだというだけでも、
「おかゆ」とか消化のよいものになるでしょ。
なりますよねぇ・・・

私は、それまでに、
何度か入院経験がありましたが
入院したばっかりで病状の悪いときは、
必ず「おかゆ」が出されていました。


それなのに、
いままでの入院よりもさらに病状が悪いのに・・・
「山盛りのどんぶり飯」がでーーんと出てきて、本当にビックリしたんです。

口に運ぶ以前に、
まず、どんぶりは重たくて
持てないし・・・(T_T)

「ほんまに、食べさせる気あるのかぁ・・・」と泣きそうです。

でも、泣いてたって、
生きられないので、
ここは若い医者を捕まえて
「おかゆに変えて!」ときっぱり言いましたよ!!!


「あほちゃぅ!!!普通おかゆやろー!」と、
苦情を言ったかどうか・・・は記憶が定かではありませんが・・・


もちろん、ひん死の状態で、意識もボヤ―っとしているので
「食べなくちゃ」という気合いだけで
食べようとしているので、

味はぜんぜんわかんないし(味覚もパーになってました)、
のどは通らないし、
美味しいかどうかとか、
おかずがどうのこうのと言ったことは
まったく関係なかったのです。

とにかく「食べ物を口に入れなきゃ」と頑張っていました。
「食べること」は生命活動の最も基本だと、
生きるためには口から食べなくちゃいけない!と
「食べる」ことに真剣だったのです。


やっとこさ出てきた私の給食は、
白ご飯から、おかゆに変更させるために、
またまた中断になってしまったのです(T_T)


おかゆにすると、カロリーが足りなくなって、
すべての献立を作り直さないといけなくなったはずです。
またまた栄養士さんも泣いていたことでしょう。
すみません。

でも、
そうは言っても、こっちは命がかかってますから。

「生きて退院すること」が私の周りを支えてくれている
すべての医療関係者のみなさんに対する恩返しなんや!と思って

心を鬼にして、言うべきことは言う!いいました!
生きるためにはなよなよしていられません。



そんな感じで、おかゆに変更されるため
引き上げられた給食のトレーを
うらめしげに眺めていたら・・・、


急患の騒々しさがやってきました。

近くを大勢の医者やナースが行ったり来たりしてると思ったら、


さ―――っと、
私のベッドの前を、
全身真っ赤な人を乗せたストレッチャーが、
左から右へと横切りました。


「えっ!患者さん、なんで、全身赤いの?」

「ヤケドしたの?」

「めちゃ細かったけど、子供かなぁ・・・」

チラリと見えたその真っ赤な人は、
お隣のベッドに新しく入院になったようです。

高度救命救急センターは、他の病院では救命できないような重症者が
毎日、たくさん運ばれてきます。
ICUのベッドは、薄いカーテンで仕切られているだけ。
この新しいお隣さんのことも気になります。



≫つづく


==========
食物アレルギーに関しては、、、
かなりやばい話があるのですがここでは控えておきます。
ひとことだけ言えば「病院給食も油断禁物ですよ」



≪前回「【高度救命救急センターの中】救命センターで「ごはん」どうするの??」

≪その前の回「【高度救命救急センターの中】ICUのベッドで」



長かったですね。最後まで読んでいただきありがとうございました(#^^#)



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